「ん……?」
雨粒が窓を叩く音に気付いて諒はベットから体を起こした。
カーテンの隙間から限られた世界を見る。 それだけでも雨の強さが十分に理解できた。
「……あれ?」
そこで一旦停止。 そしてそのままの体勢で熟考する。
嫌な予感が諒の脳裏をよぎった。 これは薫が絶対に面倒くさい事になっていると。
「はぁ……でもやっぱり、俺なんだろうな……」
遅かれ早かれ掛かってくるであろう電話にため息をつく。 このパターンはもう抗えないなと経験論に基づく客観的な結論から、早々に諦めて電話帳から薫の名前を呼び出した。
そして、発信ボタンを押す。 すると、なぜかワンコールで薫がでた。
『もしもしー? ちょうど今連絡しようかなって思ってたんだけどー』
成る程な、小さくそう漏らしてため息をつく。 どうやらこのパターンからは抜け出せないらしい。
自嘲的な笑みを浮かべる。 そうでもしないとやってられない。
「……今どこに居んの?」
諦めているはものの、嬉々として聞く事もない ―― そう考え、出来るだけ不機嫌な声を出して聞いてみた。
『さっすが諒〜、駅に居るよっ』
「…………」
……まぁ、初めから効果は期待していないが。
Episode 18
― 過去と現在の狭間で・後編 ―
「あれ? かおりん?」
通話が終わり、近くの柱にもたれかかった所を声をかけられた。
かおりんという愛称で呼ぶのは一人しか居ない。 薫がその方を見ると、やはり晴菜だった。
「へ? 何してるの?」
「そりゃこっちの台詞……って、まぁええか。 私は図書委員の仕事やってん」
「へー、大変なんだね」
相槌を打ちつつ晴菜の格好に目をやる……成る程、それ以外の用事はなかったらしい。 荷物は手に持ったビニール傘だけだった。
「で、かおりんは?」
「私はねー……ほら」
買ってきたアクセサリーの入っている袋を上げる。 晴菜もそれだけで意図を読み取った。
「珍しいなー、一人で?」
「まぁ、ね」
「で、何買ったん?」
「アクセサリーだよ。 安物だけどねー」
「へ〜、私もそろそろ新しいの欲しいねんけどな〜」
なんとなく。 本当になんとなく気恥ずかしくて、諒の物だと言う事は伏せておいた。
薫の言葉に晴菜は疑問を覚えなかったらしい。
「あ、そうや。 聞きそびれとってんけどな……」
「ん? 何?」
急に晴菜の声色が真剣なものに変わった。 それに驚きつつも、薫は返事する。
「前、叶わない恋に意味はあるかって聞いたやん?
あれ……どんな風に考えてんの?」
「へ……?」
戸惑って、視線を逸らそうとした薫だが、真っ直ぐに向けられた晴菜の目にそれすらも出来なくなった。
今までとは違う雰囲気が、薫の行動を縛る。
「わからんか?」
「…………っ」
呆れたような、悲しいような……そして静かに怒っているような晴菜。 その表情には何の感情もこもっておらず、薫は一瞬恐怖を覚える。
「前から言おうと思てたんやけどね……」
そっと、晴菜の手が薫の頬を撫でた。 その手の冷たさに悪寒が走る。
依然、晴菜の目は薫のそれを惹きつけて離さない。 ただ、真っ黒な瞳には相変わらず感情すらも伺えない。
そして……
「かおりん、問題の先送りしすぎや……」
小さな声で、ぼそっと。 それでいて薫の耳に届くように、囁いた。
「へ……?」
「いつまでも答えを出さなくていい事なんて、ないんよ……?」
言葉の意味を読み取れずに動転する薫を尻目に、晴菜は言葉を重ねていく。
まるで作業のように感情を交えず淡々と……
「そうやって、保留にしておけばいつか答えが出るなんて思ったら、あかんよ」
「ねえ、晴菜?」
「諒君だけやない……いつまでも今が続くわけやないんよ?」
「はる……な……?」
「なぁ、かおりん?
……ぷっ……くくく……」
「へ……?」
薫が間抜けな声を出したのも仕方ないと言える。
晴菜の両手は薫の両肩をバンバン叩いているが痛みも感じない。 それほどに気が抜けたのだ。
対する晴菜は顔を伏せ、小刻みに震えている。
「くく……ごめ……まさかこんな真剣に引っかかってくれるとは……ぷっ……くくく」
「へ、は、はる……な?」
「……くく、あはは……」
未だ事態を飲み込めない薫だが、目の前の晴菜の様子を見て、徐々に事態を把握していく。
そして、晴菜が笑いを堪えている十数秒で、やっと結論に達した。
「えっと……騙され……ました、か?」
峠を越したもののまだ余韻が残っているのか、顔を上げない晴菜がそのままでうんうんと頷く。
「……はふぅ……」
理解して、余計に力が抜けた。 変に裏返った声が抜けていく。
そしてやっと怒りがこみ上げてきた。
「晴菜ー!!!!!!」
妙な緊張とか、その他諸々を返せー! と目の前にいる晴菜に叫ぶ。
身長は晴菜の方がやや高い為、妹が姉に駄々をこねている様にも見えなくもなく、どこか間抜けだ。
「や、ホンマごめんて、前からかおりんの事は騙し易そうやなとは思ってたんやけど」
「その口閉じろー!!」
「お前も騒がしいから閉じような?」
そりゃあもう不機嫌ですが何か? と言外に語る声が薫の耳に届いた。
声の主はもちろん諒である。 振り向くと同時にデコピンがクリーンヒットした。
「いったー! 何すんの!?」
「何すんの!? じゃねえ! 天気予報ぐらい見て出かけやがれ!」
「私が出るときにはテレビでやってませんでしたー!」
べーっと舌を出す薫に黄金の右を喰らわせようとしたが、晴菜が見ているのでぎりぎり踏みとどまった。
……が、込めた力が発散されなかった為に次第にプルプルしてきた。そんな諒の右手を見て、晴菜は苦笑いを浮かべる。
「携帯とかもあるだろうが!」
「ぐっ……し、仕方ないじゃん! 忘れてたんだからさー!」
急所を突かれると、いっそ清々しい程開き直る薫。 ついに幻の左の出番かと笑顔で拳を固める諒。
「ちょい待ち。 喧嘩はあかんでー」
「皆元さん……」
「晴菜……」
それに割って入ったのは晴菜だった。
「かおりん、彼氏さんがせっかく迎えに来てくれたんやからそんな言い方したらあかんでー」
「……っ!」
「……いや、彼氏じゃないから!」
晴菜の発言に対し、詰まったのは薫で、命一杯否定したのは諒だった。
「またまた〜、そんなに照れんでも〜!」
「いや、ほんと違うから! 皆元さん! なぁ、薫?」
「えっ……あ、うん」
なぜか、即答が出来なかった。
必死に否定する諒の姿に、薫はなぜだか胸が締め付けられ、喉が絞まるような感覚に襲われる。
「あ、もしかして私の事名前で呼ばないのも薫のせいなん!?」
「なんでそうなるの!?」
どくん、どくんと鼓動がしだいに高鳴ってくる。
理由はわからない。 ただ……目の前の諒の姿を見るのが苦しいという事だけ、なんとか理解していた。
別に諒は今まで通りの対応をしているだけなのだ。
学校でからかわれた時も、同じく全力で否定してきた。 いつもと違うのはそれに薫が参加していない事だけ。晴菜も本気で言っているわけではないだろう。
そうわかっているのに、胸に引っかかって取れない何かがある。
近頃感じていた違和感とは全く違うモノ。 薫はその感覚の正体にやっと気付く。
「あ、お邪魔みたいやから私は帰るな〜、じゃあね〜」
「皆元さん! あー……もう」
薫とすれ違う寸前、晴菜は囁きかけた。
「……私の言った事、ちゃんと考えなあかんよ?」
その声は諒には届かなかったらしく、踵を返して改札へ駆けてゆく晴菜の背中を見送りつつため息をつくだけだった。
そして俯き加減の視線はそのまま薫へ向けられる。
「帰ろうか……」
「……うん」
差し出された傘を受け取って、諒の後に続く。
妙な鼓動は納まらず、呼び止めようと口を開いたが肝心の声が出ることはなかった。
「ふぅ……」
タオルで湿った髪を拭きつつ、部屋の電気を手探りで点ける。 その手には諒に渡すはず "だった" アクセサリーの袋。
結局、薫は渡せずに家に帰ってきてしまったのだった。
「何やってんだろ……私……」
帰り道は互いに言葉を発する事はなかった。 少し前を歩く諒の後姿がどうしようもなく遠くに感じて、互いの傘がぶつからない程度の間隔から広がる事も狭まる事もせず……そしてせっかく買ってきたアクセサリーを渡すタイミングも逃したまま。
それを払拭しようと口を開きかけて、結局口を閉じる。 その繰り返しだった。
「結局何がしたかったんだろ……」
ベットに体を預ける。 だらんと投げ出された体を柔らかな布団が受け止め、包み込む。
「…………」
……今も昔も変わらず、雨の日に向かえに来てくれるのはやはり諒だった。
そう。 諒との関係は今も変わっていないのだ。 まるで磁石のように二人は引き付け合い、そして同じ極同士のように一定の距離から近づきもしない。
幼馴染という糸は二人をしっかりと繋ぎ、 これからもその距離を保ち続けるのだろう。
「…………」
ふいに、晴菜の言葉がフラッシュバックする。 勿論、先ほどの言葉だけでなく、以前晴菜と美咲と三人で集まったときの会話も蘇ってきた。
諒君に彼女出来たらどうすんの? ―――
(……答え……か……)
答えを出さず、目を背け、守り抜いてきたその曖昧な関係。 しかし、これからはどうだろうか? 今の関係が続くと言い切れる? 諒にだって未来があるのに?
自分への問いは雨音にかき消されるように消えていく。
その一方で、薫は薄々自覚しようとしていた。 そうやって目を背けても、答えを出さなくてはいけない日はやってくる事を。
(でもね晴菜……答えは私が出すんじゃないんだよ……)
カーテンの隙間から覗く暗い空を見上げる。 いつもこの時期になると思い出す過去に、薫は無意識に奥歯をかみ締めていた。
(私が出しちゃ、駄目なんだ……)
諒君に彼女出来たらどうすんの? ―――
また、晴菜の言葉が耳に響く。 あの時はそれよりも、自分の中で目まぐるしく変貌を遂げる恋愛観に戸惑っていたのを覚えている。
美咲の恋愛観に触れるたび、自分と諒の事を考えてしまっていたのだ。 彼女らと言葉を交わす度に付き合うという事がよりリアルになり、自分がそうなる事を考えたのは一度や二度ではない。 もちろん、そうなりたい相手も決まっていた。
もしかしたら、そういう自分の変化を諒に話すことで諒から歩み寄ってもらおうとしていたのかも知れない。
(だって、さ……)
だがその矢先、諒が風邪に倒れ、その時に暗い過去が頭をもたげてきたのだ。
忘れていたわけでは決してない。 ただ、その過去が薫に囁きかけた。
自分の罪を忘れるな、と。
(私のせいで、諒は死にかけた事があるんだよ……?)
過去と現在の狭間で、ずっと錆付いて止まっていた歯車が動きだそうとする。
間違った方向に進んでいるのか……それとも正しく進んでいるのか……今までの選択は正しかったのか……
それぞれが抱えた過去が、それぞれをきつく縛り付け、思いが、理想が、後悔が交錯していく。
運命はやっと、回りだした。 それは加速度的に唸りを上げて薫達を飲み込み、一つの終焉へ向かおうとする。
梅雨の置き土産のような雨の降る、初夏の日の事だった。
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