茜屋での最初の仕事は掃除から始まる。
「♪〜……」
昨日から降り続けている雨は止む事はなかったが、日を跨いでやっとその勢いが納まってきた。
茜はそんな小振りの雨粒が窓に当たる様子を眺めていた。
「♪〜……」
鼻歌混じりに残りのグラスを拭こうと手を伸ばした時、つい先ほど鍵を開けたばかりのドアが開いて鐘の音がした。
「すいません、まだ準備中……あら?」
この時、茜が驚いたのには理由が二つあった。
一つは日曜で休日であるのにも関わらず、帰宅部であるはずの彼らがわざわざ学校の近くにある茜屋まで来た事。 もう一つは……
「……笑顔でいらっしゃいって感じでもないわね……どうかした?」
「相談、乗ってもらってもいいですか?」
「ごめんなさい、少しの時間でもいいから……」
彼ら――啓吾と美咲の表情が余りにも真剣そのものだったからだ。
Episode 19
― 支える者達 ―
無言で美咲の話を聞いていた茜は美咲が話し終わると同時に口を開いた。
「で、私の意見を聞きたい。 と」
「はい……」
「……啓吾君は何かないの?」
「いえ、俺は……」
思いつめた表情の美咲と、傍目にはポーカーフェイスを崩さない啓吾……が、いつもよりため息が多く、表情もやや暗いのを茜は見抜いていた。
それにしても……茜はそう呟く。
「重いもの背負ってたんだね……中学の時みたいにはさせたくない、か……」
ため息混じりに漏れた言葉に美咲が顔を伏せたまま頷く。 啓吾もどうやらそれに近しい感情は有しているらしい、心なしか顔を背けた。
「かと言って強引に背中を押しても、それこそ二の舞……ね。 見事な八方塞がりが完成してるわね……」
茜の言葉を最後に店内に沈黙が訪れる。 茜の言葉の通り、そこが問題だった。 悩んでるなら相談に乗る、行動が起こせないなら勇気付ける……そういう単純な話ではなかったのだ。
諒と薫の事情も知っている茜から見ると、状況は最悪だと思われた。
(この子達は……まだ若いのに……)
全員が各々に背負った過去が、前に踏み出そうといする彼らを繋ぎとめ、行かせまいとしている。 過去という名の鎖が複雑に絡みあっていた。
だからと言って傍観するのも間違いだ……少なくとも茜はそう考えている。 しかし、自分達で踏み越えていかなければならないのも又、事実だとも思う。
(諒君……)
目を瞑り、先日の諒の様子を思い出す。
(あなたは、二人にも知って欲しかったんじゃないの?)
あの日。 一礼して席を立った諒に思わず茜は声をかけていた。 それを端に、話を聞く最中ずっと気に掛かっていた疑問をぶつけてみる。
「啓吾君と美咲ちゃんには話してないの?」
「……話してません」
途端、諒の表情が暗く、俯き加減になる。 一瞬顔をしかめたのが茜にもわかった。
「どうして? 私よりも二人に相談するのが先じゃないかしら?」
「こんなつまらない過去をですか? 終わった事なのに?」
肩をすくめつつ、諒は答える。 質問に質問で返すのは精神的劣勢の表れ……とはいえ、諒の一言で茜も言葉を詰まらせた。 自虐的な笑みを浮かべる諒は茜を様子をその目に認め、口を開く。
「あの二人ね、いつも恋愛相談される時に恋愛に周りは関係ないって言うんですよ……でも、それは関わるなら責任を持てって言う事の裏返しみたいなんです」
「…………」
「で、たぶんあの二人の事だからそれは経験に基づく言葉なんでしょう……加えて言うなら自分達もその信念を曲げないと思うんですよね……勝手な憶測なんですけど……どうでしょう? はずれでは無いと思いません?」
「……そう、ね……」
諒の問いかけを茜は肯定する。 そして、ここまで聞いてやっと諒の本心に行き着いた。
「巻き込みたくない……のね?」
「……当たりです。 単純にクラスの奴に話すのとはワケが違うんですよ。 単なる同情でなく、啓吾と美咲ちゃんはもっと深い部分で過去に関わろうとしてくれる筈です……だから言わなかったんです。 あの幸せそうな二人を見てると流石に巻き込む気なんて失せますよ」
ははは、と乾いた笑いが諒から漏れる。 高校生に似つかわしくない悟ったような目が、茜の心を苦しめた。
脳裏にこびり付いて離れない記憶と諒の目が重なり、無意識にエプロンの端を握り締める。
「…………」
「…………」
沈黙が二人を包む。 相変わらず鳴き続ける蝉の声が茜にはやけに耳障りだった。
「だから……」
ぽつりと、諒が言葉を漏らす。
「だから、もう少し一人で悩んでみます……茜さんの言う通りでしたよ。 前提を否定して欲しかったんです……でも、やっぱり逃げちゃ駄目ですよね。
せめて踏み出す最初の一歩ぐらい、自分の力でやってみます」
「そうね……」
「又、どうしようもなくなったら……話に来てもいいですか?」
「もちろん。 いつでも待ってる」
無意識に、"相談" という言葉を諒は避けていた。
「ねぇ」
「なんでしょう?」
「啓吾君と美咲ちゃんからあなた達について知りたいって言われたら……黙ってた方がいいのかしら?」
茜が意を決して発した言葉に、諒は難しい顔をした。 視線を落として顎に手をやり、沈黙。
そして、諦めたように息を吐いてから一言。
「おまかせします」
とだけ答えたのだった。
「じゃあ、また……ごめんなさい」
「すいませんでした」
「また、話したくなったら、いらっしゃい」
ドアを開けて振り返りながらそう言った啓吾と美咲に対して、茜はそう声をかける事しか出来なかった。
完全にドアが閉まりきってから、脱力してその身を椅子に預ける。
「ふぅ……」
結論から言えば、何も解決しなかった。
元々、美咲も啓吾も何も出来ないのは感じていた様で、大まかな方向性としては相談よりも発散に近かった。 行き場も何もなく、溜まった感情のはけ口が欲しかったのだろう……それが会話をする間に茜が感じた事だ。
自分達の恋愛が上手くいっている傍らで、大切な友人達は苦しんでいる……そんな状況に耐えかねた。 直接的な表現こそ無かったが、美咲と啓吾はその旨を語った。
「……高校生、か……」
息を吐き出しつつ、天を仰ぐ。 ついでに伸びをして、心地よい感覚に身を預ける。 そして誰に言うわけでもなく、口を開いた。
「……結局……諒君達の事、言えなかったな……」
複雑な感情が胸で渦巻いていたが、悩む美咲と啓吾を前にして茜は最後まで話すことが出来なかった。
諒が苦しんでも尚、迷惑を掛けまいとした二人を自分が巻き込んでいいのか? そう考えたとき、どうしても口を開く気にはなれなかった。
と。
「話は済んだかい?」
「立ち聞き? あまり良い趣味とは言えないわね」
カウンターの奥から卓が顔を出した。 振り返ることもせず、茜は返事する。
「いや、本当に最後の方しか聞いてないよ。 今起きてきたばかりだし」
「……それって結構微妙よね。 聞いてない事を喜ぶべきか……店主の怠慢を非難すべきか……」
「僕としては前者を推すけどね。 それにその怠慢が今日の状況を作ったんだから、素晴らしい偶然だったと思って見逃してくれたらな〜、なんて」
冗談めかして言う卓に茜は盛大なため息を持って返した。
近づいてくる足音を感じつつも、茜は振り返らない。
「茜……」
後ろを気配を感じた次の瞬間、茜は卓に抱き締められていた。 一瞬、驚いたように体を強張らせたが、その温もりを感じとるように手を重ね合わせ、体の警戒を解いた。
何度となく感じた卓の温もりが、茜の身を包み、ほぐしていく。
「ねえ」
そう言ったのは茜だった。
「卓は……私との恋愛、楽しかった?」
「急にどうしたんだい?」
驚いたような、可笑しいような、そんな声で卓が聞いたが、茜はそれを無視して答えを待った。 卓もそれに気付き、わざとらしくうーんと唸ってみせる。
そして……
「……君との恋愛はまだ終わっちゃいないよ。 僕は今でも君と恋愛をしているつもりなんだけど」
耳元で、そう囁いた。 瞬間、茜の顔が上気し、やや赤くなる。
「だから、さ。 過去形するのは止めてよ。 ……それとも、茜の中で僕との恋愛はゴールしたのかな?」
「……ううん」
「そっか」
脈打つ心臓をなんとか落ち着けて、搾り出した答えがそれだけだった。 しかし、その短い言葉でも満足したように卓は頷いた。
「急にどうしたの?」
「なんでもない。 ちょっと、聞いてみたかったの」
「そう」
短く卓が返事する。 と、茜の頬に暖かい物が触れた。 キスされたのだ。
「……ばか」
「なんとでも」
卓の満足そうな声が店内に響く。 どうやら、茜の小さな反撃など卓に対しては全くの無意味のようだった。
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