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数日が経った。
梅雨が完全に明け、いよいよ夏休みが見えてきたある日の昼休み。
いつもと同じようにコーヒーのボタンを押す啓吾を見ていた諒は口を開いた。
「啓吾ってさ、いつもコーヒーだよな。紅茶は嫌いなの?」
「ん、いやな、紅茶は飲めないんだよな」
「へ?」
「一日中胸焼けがするんだよ」
「ふーん……」
適当に相槌を打ちつつ、硬貨を入れてお気に入りのジュースのボタンの前で指が止まった。
そして斜め下を向いて数秒思案。視線を紅茶ゾーンへ移し、150mlのミルクティーをセレクトする。
「おい」
受け口から商品を取り出そうと屈んだ諒の上からやたら重い声が降ってきた。
もちろん声の主は啓吾である。
「嫌がらせか?」
「いや、あわよくば匂いで胸焼けでもしないかな? と」
「そーかお前はそんな奴だったんだな」
「怒るなよ。冗談だって」
踵を返した啓吾を追おうとした……ら当の啓吾は立ち止まっていた。
追いついて、なんだ? と啓吾の横から顔を出す。
「あ、諒君も居たんや? 最近どうしたん? 図書室にも顔見せよらんし心配しとったんよ〜?」
「……皆元さん」
晴菜だった。
ショートカットの髪が伸びたのかいつも下ろしている髪を後ろで括ってポニーテールのようにしている。
「どないしたん? 元気ないやん」
「あぁ、うん。何でもないよ」
まずい。
諒は反射的にそう思ってしまった。
Episode 16
― 交錯 ―
諒が教室に戻ると美咲が啓吾の席に座っていた。否、突っ伏していた。
飲み物を買いに行っている間にこの機を逃すべからずと席を占領したらしい。啓吾に合掌する。
「あれー? 私の分はー?」
「甘えんじゃねえ」
「はうあ!?」
前に突き出した美咲の腕に触れないように椅子に腰掛ける。
声を掛けてきたスライム(薫)の額には黄金の右をくらわせた。効果は抜群だ。
「痛いなー! って、啓吾君は? 一緒じゃなかったっけ?」
「下で皆元さんと会ってさ、なんか一緒に図書室行った……」
「……から、一人ぼっちになって寂し〜くトボトボ帰ってきた。と」
「ほぉ、俺に喧嘩売ってんのか?」
がし。
ニヤつく薫に喰らわせようと振りかぶった左が途中で止まった。
何事かと左側……即ち美咲の方を向いた諒をいろんな意味で凄い光景が迎えた。
「えーと……美咲……さん?」
「晴菜と二人で?」
視界には突っ伏している美咲。……が、左手がしっかりと諒の左手をホールドしている。
どうやら自立思考型自動追尾装置が彼女の左手には装着されているらしい。いつの間にかロックオンされていたようだ。
"ちゃん" から "さん" に呼び方が変わっているのは恐怖故か。
「えっと、あの……」
「二人で?」
「……はい」
ゴゴゴゴ……と効果音までつきそうなほどの黒いオーラを放出する美咲。
私をこんな暑い中に一人にしておいて自分は楽しそうに浮気ですか? と文字が見えそうだ。
「そう。わかった。ありがとう」
長い髪を掻き揚げ、スッと立ち上がる。その眼光は半目ではあるが鋭さが伺える。
そのまま無言で教室を出、階段の方へ向かって行った。教室を出る際にぶつかった女子生徒の表情がたちまち驚愕に染まった辺り美咲の怒りが伺い知れる。
取り残された二人。初めての美咲のオーラに圧倒され、無言状態が続く。
「なぁ……俺、地雷踏んだ?」
「っていうか、踏み潰した?」
諒に続いて薫も我を取り戻す。
そして視線を合わせ、やばかったかな? いや、もうどしようも無くない? と、アイコンタクト。
結果、
「……なぁ、かがみ山の事なんだけどさ」
「あーはいはい。何?」
話題転化。精神的負荷になる事は遥か彼方に投げ捨てておく事にした。
諒は「自分は事実を言っただけ」と自分を正当化しておくのも忘れない。
「あれさ、やっぱ行くの止めようぜ」
「ん、まぁいいけど。なんで?」
基本的に諒は律儀で約束を守る人間である。
その諒が約束を反故にした。薫にとっては当然の疑問と言える。
「ん〜、なんかもうちょっと時間が経ってからでよくないか?」
「……あー、確かにね。結局、風邪治っても行かなかったし」
中学の間も何回か行ったことがあるので過去を振り返る為に行くというのも変だ。
かと言ってわざわざ行くものなのか。これが諒の言い分だった。
「んじゃあ、また気が向いた時でいいよね」
「だな」
初めから特に深い意味も有ったわけでもなく、ちょうど週末に予定も出来たばかりの薫はそれを快諾する。
「これ、やるよ」
「え? あ、ありがと……」
半分程残ったミルクティーのペットボトルが突っ伏す薫の目の前に置かれた。
びっくりして顔を上げた薫の頭に諒がポンポンと左手を乗せる。
ふと、先日の暖かい感覚が薫の中で鮮明に蘇ってきた。
「あ、何処行くのー?」
「トイレだよ。飲み終わったら捨てといてくれ」
すぐに立ち上がって、離れていく諒の背中にうん……と、消え入りそうな声で返事をする薫。
微妙な違和感が残る。
「う〜……」
唸ってみても答えは導き出せない。
具体的にどの部分か? ではなく、もっと曖昧な違和感。それこそ、気のせいという言葉で一蹴されてしまう程の。
「…………」
ミルクティーを手に取り、口に含む。
……甘い。
しかし、それも今の薫にとって喉を潤す以外の意味は成さなかったようだった。
トイレ。薫にはそう告げたが、諒は屋上に来ていた。
この季節にわざわざ日光に当たり来る人間は居ないだろうと来てみたのが正解だった。
自分の登ってきた階段の真上に位置する貯水タンクの陰に腰を降ろして目を瞑る。
思い出すのは先日の茜屋での会話―――
「……もう自分の中では答えは出てるんでしょう?」
それが、諒の "悩み" に対する茜の答えだった。
洗いざらいこれまでの事も自分の思いも全てを話し、得られたのはこれだけだった。
「また、女の勘ですか?」
「見当違いでは無いと思うけど?」
なぜだか腹が立って嫌味を言ったが、それはあっさりと返された。
言葉こそ疑問系であるが、茜の言葉は厳しい。
文句があるなら言ってみろ。言外にそう言われているのだ。
それが諒の苛立ちを増幅させる。
「なんでそこまでわかるんですか? 教えてくださいよ」
「そうね……諒君は相談したいんじゃなくて、自分の出した回答の答え合わせ、もしくは自分にとって都合の良い回答が欲しかった……その辺りでしょう?」
「女の勘はすごいんですね、まるでエスパーだ」
「これも正解、と」
年上という事を嫌というほど感じさせられる。
諒の嫌味など聞き入れる事なく言葉の一つ一つが核心を突いてくる。
「その希望に沿って最初の質問に答えるなら……諒君が考えていた事と違ってたと思ったのは勘違いで、実は諒君の考えている通りだった。かな?
具体的な解決方法じゃなくて、その質問……つまり、前提自体を崩して欲しいんでしょう?」
「…………」
「最終的に私に言って欲しい言葉は、"そんな事ないよ" ……どうかしら?」
「……全く持ってその通りですね」
お手上げ。小さくポーズを取りながら諒は言う。
「一旦自分の中で理屈が通ったんですよね……それに今までの事が上手く噛合ってしまうと、もうその理屈を崩せなくなっちゃいまして」
「そう……」
「自分の気持ちとベクトルが違い過ぎて……ね」
右側の首の付け根あたりに左手を置く。
これは諒自身も自覚している癖だった。
「それ……その時から?」
「まぁ、そうですね」
"それ" とはもちろん、諒の癖の事だ。
ふう、と茜はため息をついた。やれやれと小声で呟く。
「ねえ、諒君聞いて? 私の知ってる馬鹿な女の話をしてあげるわ」
「唐突ですね……どんな話です?」
「その女にはね、歳の離れた弟ような存在が居たの―――」
「おい」
先ほど聞いたばかりの低い声で回想は中断させられた。
わざわざ目を開くまでも無い。毎日と言っていいほど聞いている声に返事する。
「よう、どうかしたか?」
「どうかしたか? じゃねーよ。散々な目にあった」
自分の右側に気配を感じてからやっと目を開け、そこで止まる。
そこにはやや頬を赤くした啓吾が座っていた。
「……なんとか言えよ。この野郎」
まずい。
今度はまったく別の理由でそう思った。
「いや、俺は事実を端的に言っただけであって……」
「ほう……」
諒の言葉をかみ締めるように頷きながら聞く啓吾。
少し間があり、目だけが動いて諒の姿を捕らえる。
「俺が皆元から勧めてもらったシリーズの最新刊が図書室に入ったと言うから本を借りに行っただけが、なんで浮気……果ては色魔とまで言われないといけないんだ?」
「いや……はは……」
サー。
そんな擬音語が聞こえてきそうな程、体温が下がるのがわかった。
焦る一方でここ最近本を読んでたのはそれか。と、やたらと冷静に事を分析する自分がいる。
「……ま、この頃あいつを邪険にしすぎてたからな。その罰だと思う事にするよ」
「はは……そうしてくれると俺も有難い」
自嘲的に笑う啓吾。どうやら初めから諒を責めようという気ではなかったようだ。
と、一瞬強い風が吹き抜けた。
「……懐かしいな……この感じだ」
「へ?」
口を開いたのは啓吾だった。
ふと見ると啓吾は目を瞑り、満足そうな笑みを浮かべている。諒が初めて見る表情だ。
「中学の時もこんな風に屋上に良く居たんだ」
「へえ……なんで?」
「時々な、どうしようもなく一人になりたくなるんだよ」
何それ? と、諒は疑問の声を挙げる。
「何だと言われてもな……」
薄く笑いながら啓吾は言う。
どうやら機嫌がいいらしい、いつも変化に乏しい表情が微弱とは言え崩れている。
数秒無言で思案。どうやら言葉が見つかったらしい、口を開いた。
「……こうして居ると自然とゆっくり落ち着いて思考を巡らせられるからな」
もしくは完全に思考を止めるんだよ。
啓吾は照れ隠しのように付け加える。
「特に悩んだりしてると余計な事まで絡んでくるだろ? そういう時はこうして一人になれる場所で一旦思考を休ませるんだ。
そうすると余計な事は切り落とされてくる。悩みの本質が見えてくる」
急ぐ事……それは自分の対応できる範囲を超えることだと啓吾は解釈している。
本来、自分が出来る事であっても、急ぐ事でその正確性は欠かれ、注意力も散漫になる。
焦り。そう言い換えてもいい。
焦る事が能力を萎縮させる。
判断力が低下し、いつも自分が下す筈の解答にすら時には疑問を持つ。
そんな自分を見失っている状態を啓吾は嫌った。
だからこそ、思考を休ませ、ゆっくりと確実に結論に行き着く。
根本がマイペースな啓吾にとっては必要な事だった。
「……啓吾ってさ、脳年齢はお爺さん?」
「ほう、散々語った俺に対する第一声がそれか」
「あ、いや、すまん」
啓吾がいつもの無表情で左拳を握り締めたので身の危険を感じた諒はさっさと謝っておく事にした。
……が、その左拳が開かれる気配を見せないので、話題転化を試みる。
どうやら最近の諒は精神的劣勢になる事が多いらしい。
「あー、そういえばさ、なんで俺がここに居るって分かったんだ?」
「なんだ? 俺がお前を探しに来たみたいだな」
「あれ? 違う?」
純粋に勘違いをしている諒を啓吾は鼻で笑う。
どうやら小馬鹿にした所で気が済んだらしく、ここで初めて左拳が解かれた。
「いやな、図書室を出た所で美咲と会って散々に罵倒された挙句に引っ叩かれてな」
「うは……」
やっぱり。と言葉が喉を通りかけたが、寸前で飲み込んだ。
「こっちにも言い分があったのに勝手に帰るしで……とにかく苛々してたわけだ」
「で、一人になろうと屋上に来たところ俺が居たと」
良く見ると啓吾のポケットからは文庫本が顔を覗かせていた。
「あー……じゃあ、居ない方が良かったな。今からでも消えようか?」
「消えて欲しかったら初めから消えてくれって言っているよ」
啓吾が言うと本当に消えろと言われそうだから笑えない。
いや、もしかしたら大真面目なのかも……と考えて、そこで止めておく。ちょうどチャイムが鳴った……予鈴だ。
立ち上がった二人だったが、さっさとはしごに足を掛けた諒とは対照的に啓吾は動く気配を見せない。
「なぁ、諒……」
口を開いたのは啓吾だった。しかし、すでに諒ははしごを降り始めていたのでこの言葉は届かなかった。
「…………」
俯いて数秒。
結局、啓吾は言葉を飲み込んだ。
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